
目次
第1章:プロローグ──5年前の初診での出会い
この患者様との出会いは、私にとっても深い印象を残すものでした。
ちょうど私が代替わりをして診療を引き継ぎ始めた頃。
初診の日、診療室に入ってこられたその姿は、「真面目な先生」という印象そのままの、凛とした佇まいでした。
お聞きすると、地元の高校で長年教鞭を取られ、もうすぐ定年を迎えられるタイミングとのこと。
口数は決して多くないのに、一言一言がしっかりしていて、真摯な人柄がにじみ出ていました。
実は当院の先代の頃から通ってくださっていた患者様でした。
その流れで、私が代替わり後に改めて診療を担当することになり、「治療方針を見直すべき時期に来ている」と感じたのが最初の印象です。
初診時の口腔内は、決して簡単な状況ではありませんでした。
奥歯がほぼ失われ、延長ブリッジとよばれる歯をいくつも繋いで何とか支えていた状態。
けれど、その無理な延長ブリッジが逆に負担を増やし、かみ合わせ全体が少しずつ崩壊し始めていたのです。
私の頭にまず浮かんだのは、「このままでは、奥歯はもちろんのこと前歯にも必ず負担がかかってしまう」という危機感でした。
同時に、「どうにか噛める状態を取り戻し、長く安定させてあげたい」という想いが湧き上がりました。
この患者様は、そんな厳しい状況にあってもまったく動揺を見せることがありませんでした。
私の説明を黙って聞いてくださり、必要なことを質問し、納得すると小さくうなずく。
治療への誠実さと、こちらの話を受け止める懐の深さ、そして医療者としての私を信じようとしてくれる眼差しに、私は深い責任感を感じたのを今でも覚えています。
あの日の診療室にあった空気は、少し緊張感を伴うものでした。
でも同時に「この人となら、きっと最後まで一緒に治療をやり遂げられる」という確信も、不思議と心の中に芽生えていました。
第2章:最初の治療計画と予想外のハードル
初診からしっかりと診査診断を重ねた結果、私の頭の中には、患者様の口腔をどう整えていくかという全体像が見えていました。
臼歯部(奥歯)の咬合支持をインプラントで再構築し、右上にはサイナスリフトというアドバンスな治療を併用してインプラントを埋入する。
そして全顎的な補綴を行うことで、前歯にかかる負担を分散し、安定した噛み合わせを取り戻す──。
それが、私の持てる知識と技術を総動員した治療計画でした。
患者様もこの提案を真剣に聞いてくださり、前向きに取り組む姿勢を見せてくれました。
そのおかげで、治療は着実に進んでいくはずでした。
しかし、現実は思い通りに進むだけではありませんでした。
まず抜歯適応の歯を抜歯し、下顎の左右の奥歯にインプラントを順次埋入していきました。
順調に思われたインプラント治療でしたが、最初の大きな壁が立ちはだかります。
ある日患者様より「インプラントをしたところが噛むとぐらつくんだけど、、」とご連絡がありました。嫌な予感がしました、、。
実際に口腔内を拝見すると、左下にインプラントを2本埋入したうち1本がロスト、つまりインプラントが抜け落ちてしまったのです。
最初は何が起こったのかわからず呆然としてしまいました。ただすぐに状況を整理し、患者様にご説明しました。
当時の私にとって、インプラントロストというのは初めての経験で、大きなショックを受けました。
「どうしてうまくいかなかったのか」「何が足りなかったのか」──自問自答を繰り返しながら、何度もシミュレーションを見直しました。
そんなときでも、患者様は一切クレームを言わず、静かに私の説明を聞いてくださったのです。
「失敗してしまったことは仕方ないです。先生、また頑張りましょう。」
その言葉には、患者様の優しさと、私への信頼がにじんでいて、胸が熱くなりました。
そこから再度気持ちを引き締めて治療に取り組んでいきました。というのもまだまだ治療は5合目くらいのところだったからです。
もう一つ、そこから患者様にとって大きなチャレンジをして頂く必要があったのです。
右上の奥歯サイナスリフトとインプラント埋入の手術です。
サイナスリフトとは上顎の奥歯にインプラントをしたいが、その部分の骨が薄くなっていた際に、上顎洞にアプローチをして骨を増やす、アドバンスな治療法です。
これは当時の私の治療技術では難しく、サイナスリフトだけは当院ではなく他院の先生にお願いして外科処置を受けていただきました。
そのため慣れない手術や見知らぬ場所での診療は、患者様にとって大きなストレスだったと思います。できるだけ患者様に寄り添うべくオペ当日には私も同行していきました。
それでも、患者様は「大変だけど、やるしかないですから」と前向きに取り組んでくださいました。
サイナスリフトのあとは半年ほど待たないといけない場合があるため、治療期間も長くなってしまいます。幸いにもサイナスリフトをした部位の骨には硬い骨ができ、その後当院にてしっかりとしたインプラント治療を行なうことができました。
こうして、一歩ずつ治療を進めながらも、途中で立ち止まり、向き合い直すことの連続でしたが、なんとか治療を終えることができました。
このとき私は「インプラント治療は決して“私一人でやるもの”ではなく、患者様との二人三脚だ」と、改めて強く感じました。
第3章:私の未熟さからの再治療
全顎的な治療を終え治療が一旦終了し、メインテナンスに移行していきしばらくは安定した時間が続きましたが、それでもさらに試練は続きます。
メインテナンスの期間中に前歯の被せ物が外れかかってきたのです。
またも何が起こっているのか、はじめはわかりませんでした。
今度もどこに原因があったのか、現状や過去の資料、オペの写真など全て洗い出していきました。
このような場合考えられることとしては、奥歯がしっかり噛めていなく(見た目は噛んでいるように見えてもしっかりとした接触していない)場合があります。今回もそのような現象が起こっており、インプラントの被せ物を作る際のエラーの可能性があると考えました。
そのことも再び治療を始める前に説明しなければなりません。今回ばかりはお叱りを受けるだろうと覚悟していました。
しかし患者様の反応はそれとは違うものでした。
以前にも増して落ち着いた様子で私に語りかけてくれたのです。
「先生の頑張りは治療を受けている身として十分わかっているよ。自分の歯の未来は自分で守るしかないからね」
その言葉に私自身、大変申し訳無い気持ちと患者様のその真摯な姿勢に背中を押されるように、改めて気持ちを引き締めました。「この方の人生に“噛める喜び”を必ず取り戻してあげたい」と心から思ったのです。
患者様はその間も、本当に協力的でした。
喫煙の影響も再確認し、改めてリスクの話をしたときも「先生の言うことだから」と真剣に耳を傾けてくださいました。
定年後で気持ち的にきつい時期もあったとお聞きしましたが、そんな時でも治療に対して真摯な姿勢を崩さない患者様を、私は心から尊敬しました。
このとき私は、「インプラント治療は技術だけではない。患者様の思いと、医療者の覚悟の両方がそろって初めて成立するものだ」と、改めて痛感しました。
そしてそれは、まさにこの患者様の姿勢から教えられたことでした。
第4章:二人三脚で進めた治療の日々
治療の再スタートからも患者様との二人三脚の日々が続きました。
インプラントの再埋入や補綴の設計調整など、決して楽な工程ばかりではありません。
それでも、患者様はどんな治療内容にも真摯に向き合ってくれました。
診療室では、私だけでなく担当の衛生士とも笑顔で言葉を交わし、時には雑談を交えながら、不安を忘れさせるような温かい時間が流れていました。
印象的だったのは、「治療中の困難をただ我慢している」のではなく、「どうすれば良い治療になるか」を一緒に考えてくださるその姿勢です。
仮歯の調整や咬合の確認の際も、「ここはちょっと当たる感じがある」と率直に伝えてくれる。
それは私たちにとって何よりありがたいことで、患者様の協力があってこそスムーズに進められた部分がたくさんありました。
担当の衛生士とも本当にいい関係を築いてくれました。
診療が終わった後に「今日はちょっと疲れたな」「でもこれでまたしっかり噛めるようになりますかね?」と穏やかに話しかけてくれる優しい一面。
私生活の話題を交えながらも、治療に関する疑問やケアの方法をきちんと確認してくれる真面目さ。
「この患者様と一緒に頑張る時間は、医院全体にとっても貴重な時間だ」と感じさせられました。
そんな日々の中で、治療の合間には、患者様が自分で育てている野菜を差し入れてくださったこともありました。
「先生、うちの畑で採れたんですよ」と笑顔で手渡してくれた野菜は、どれも立派で、美味しさ以上に患者さんの人柄の温かさが詰まっているように思えました。
そして、患者様の協力的な姿勢に応えるために、私たちも治療の一歩一歩に妥協を許しませんでした。
治療計画の再設計、技工士との密な打ち合わせ、仮義歯のわずかな調整まで、常に「この患者様がしっかり噛めるように」という思いを胸に進めていきました。
治療の過程は決して平坦ではありませんでした。
それでも、この患者様の“前向きな忍耐力”があったからこそ、私たちも一歩ずつ進めることができたのだと思います。
今振り返ると、この数年間の治療の日々は、患者様と私たち双方にとって“信頼と協力”の象徴のような時間でした。
第5章:最終補綴装着の日
いよいよ迎えた、最終補綴物の装着の日。
5年越しの治療の集大成として、この日を迎えるまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。
それでも、患者様と私たちは一緒に乗り越え、ここまでたどり着きました。
最終補綴物は、上下のバランスや咬合面の形態、清掃性までを徹底的に確認しながら仕上げました。
技工士とも何度も打ち合わせを重ね、「患者様が噛める喜びを取り戻す」その一瞬のために、細部まで心血を注ぎました。
診療室で鏡を覗き込む患者様は、最初こそ少し緊張した面持ちをしていました。
でも、新しい歯が口元に収まった瞬間、ふっと笑顔が広がるのを見て、私の胸もいっぱいになりました。
「これは…自分の歯みたいですね」
その一言に込められた驚きと喜びは今でも覚えています。
噛み合わせの微調整を終え、しっかりと力をかけて咀嚼できるようになった患者様は、その日、何度も口を動かしては「これなら大丈夫」と確かめるように笑っていました。
その姿を見ながら、私自身も心の中で小さくうなずきました。
「これで本当に“噛める”ようになった」
あの瞬間に宿った自信と達成感は、これまでの苦労をすべて吹き飛ばしてくれるほどのものでした。
この患者様は、定年後の新たな生活を迎える中で、精神的にきつい時期もあったといいます。
それでも治療には一切妥協せず、むしろ「また噛めるようになる日」を信じて支えてくれた。
その人柄と忍耐力には、私たちもたくさんのことを教えられました。
最終的に仕上がった前歯の見た目は非常に自然で、審美的にも機能的にも素晴らしい仕上がりになったと思います。何より「しっかり噛める」ということが、患者様の毎日の生活に新しい光を与えると信じています。
この治療が終わったことで、患者様は以前よりもさらに明るく、表情豊かに診療室を訪れてくださるようになりました。私にとっても、スタッフにとっても、“噛める喜びを取り戻した患者様の笑顔”は何にも代えがたい宝物です。
装着が終わった日、患者様はふとした笑顔で、こう言ってくれました。
「5年も経つと、お互い少し年を取ったな。でも、これからもよろしくお願いします。」
その言葉には、これまでの信頼関係と、これからもずっと見守っていく決意が込められているように感じました。
この言葉を胸に、私たちはこれからも患者様の“噛む喜び”を支え続けていきます。
第6章:まとめ──この患者様が教えてくれたこと
今回の治療を振り返ると、技術的な挑戦や計画の見直しなど、歯科医療としての課題はたくさんありました。
でも、私にとって何より大切だったのは、「患者様の人生を支える治療の意味」を改めて感じられたことです。
この患者様は、治療がうまくいかない時期も、決して諦めることなく、前向きに治療に向き合ってくださいました。
どんな時でも、私の説明にしっかり耳を傾けてくれるその姿勢に、何度も助けられました。
途中、私の未熟さが招いた失敗もありましたが、それを乗り越えさせてくれたのは、この患者様の人柄と忍耐力だったと思います。
そして、治療の節目節目で見せてくれた「これからもよろしく」という言葉。
その言葉には、ただの患者様と歯科医師の関係を超えた、“一緒に人生を支え合う仲間”のような信頼が感じられました。
インプラント治療は決して簡単な治療ではありません。
ただこの信頼があったからこそ、5年という長い道のりを一緒に歩き切れたのだと心から思います。
治療を終えた今、患者さんの笑顔を見て、私自身が「この仕事をしていて本当に良かった」と感じています。
噛めることは、ただ食べるための機能ではなく、その人らしい生活を取り戻す力です。
この患者様の物語は、まさにその象徴であり、私たちにとっても大きな励みになっています。これからも、この患者様との絆を胸に、一人でも多くの方に「噛める喜び」を届けていきたい。そう改めて心に刻んだ今回の治療でした。
今回は私からの目線が非常に多かったのですが、ぜひインプラント治療を考えていらっしゃる方にとってこのブログが少しでも力になればと思っています。


監修者情報

院長 渡邉 威文
- 九州大学歯学部 卒業
- 九州大学総合診療科にて研修
- 福岡赤十字病院にて研修
- 山口県萩市にて勤務
- 福岡県糸島市にて勤務
- 医療法人渡辺歯科医院 継承







